石碑巡遊〜手書きの魅力

名文・名筆を求め、各地の史跡・社寺などを巡り紹介していきます。現在、NOTEへ移行中完全移行後、こちらは閉鎖します。

東西に分離した西側の村の鎮守、中山桑林の書が多く残る 〜西新井宿氷川社

こんにちは。前の記事に引き続き、道を挟んで対面で建っている神社についてです。

 

 

こちらは埼玉に多い「氷川神社」(氷川社)です。

 

sekihijunyu.hatenablog.com 前回の記事はこちらです。

 

一先ず、境内にあった由緒から。

 

当地は、元禄年間(1688ー1704)以前に新井宿村から分村し西新井宿村と称するようになった。近世の新井宿村と西新井宿村は今も川口市の大字として継承され、日光御成街道(県道大宮・鳩ヶ谷線)が両大字の境界となっている。


 当社はこの日光御成街道に面して鎮座し、すぐ隣には旧別当真言宗宝蔵寺がある。その立地から見て、当社の創建は日光御成街道が整備された江戸初期のことと考えられ、宝蔵寺の僧がかかわっていたものであろう。宝蔵寺は『風土記稿』に「寛文2年(1662)6月8日寂せし源海と云僧より以上の世代を伝えず」と記されている。


 文化3年(1806)の『日光御成道分間延絵図』を見ると、街道の西側に西新井村の鎮守氷川明神と別当宝蔵寺、東側に新井宿村の鎮守子聖権現(現子日神社)と別当多宝院という形で、両社の社寺が街道を挟み対面して描かれている。また、両社の鳥居の傍らには高札が立ち、街道を往来した人々が足を止めた所であったことがわかる。


 文久元年(1861)に本殿が改築され、同3年(1863)には拝殿が改築されたと伝えられる。


 明治6年に村社となり、明治末年までに新井宿の村社子日神社をはじめ、大字西新井宿内の雲井社・比叡社・飯縄社・稲荷社・姥神社の計6社が合祀された。なお、子日神社は昭和23年に復祀された。

 

とあります。対面にある社寺との関連も書かれています。

 

こちらにも多くの石碑があります。

 



1つ目は日露戦争の紀念碑です。書者は陸軍の将、浅田信興氏。最後には大将にまで上り詰めた人物です。

 

『大将伝 第1 陸軍編』によると明治37年に中将になると記述がありますので、この碑はその辺りであることがわかります。

 

隷書で書かれていますが、どことなく篆書の雰囲気を孕みつつ、楷書っぽい線質もあるという面白い書だなと思います。

 

 

続いても戦争に係る石碑、「戦利兵器奉納ノ記」になります。

 

碑陽には

 

戦利兵器奉納ノ記
是レ明治三十七八年役戦利品ノ一ニシテ我ガ勇武ナル軍人ノ熱血ヲ濺キ大捷ヲ得タル記念物ナリ茲ニ謹デ之ヲ献ジ以テ報賽ノ微衷ヲ表シ尚
皇運ノ隆昌ト国勢ノ発揚トヲ祈ル
明治四十年三月
陸軍大臣寺内正毅(花押)
慶北 臼倉肅道敬書
石工 武内半蔵

 

と書かれています。明治37、38年の戦争とは日露戦争のことですね。

 

碑陰には

 

奉納品
一七珊半弾丸 四個
一方 匙 壹挺
明治四十四年十月十三日建設

 

とあります。

 

本文を撰文したのは当時、陸軍の大臣を勤めていた寺内正毅氏、『日本陸軍名将伝』によると日露戦争はこの氏が主に先導したとのこと。しかし、「根のような存在」(縁の下の力持ち)の人物であったため、後に首相になるまで存在感が薄かったと記述されています。

 

sekihijunyu.hatenablog.com

 

書は上の記事で何度も名前が出て来た臼倉氏。正統な書き振りです。

 

 

続いては小御嶽神社の碑。由緒で述べたところにこの神社の名前はありません。

おそらく元から鎮座していたのでしょう。

 

書を手掛けたのはこのブログで何度も登場している中山桑林氏。その57歳頃の書。

 

江戸末期から明治にかけて剣術家として活躍した方ですが、字もとてもいいです。

 

 

こちらも同じく中山桑林氏のもの。国旗掲揚塔だと思われます。

 

「邦家安全・皇国静謐」と書かれています。

 

 ※裏側、達者な行草で書かれる。

 

こちらは60歳頃に当たります。同じ隷書であるため、比較しやすいです。

3年前に比べ、より隷書らしくなり、線の末端まで気力が充実しているように感じます。

 

楊守敬の来日が明治13年4月であり、これ以来明治書壇に影響を与えたとされています。この塔の字は明治13年6月と裏側に刻まれていますので、もしかすると何かしらの影響を受けていたのかもしれません。

 

 

続いては「国威宣揚」の国旗掲揚塔です。

 

南郷次郎の書と見えます。

 

南郷次郎は海軍の人、後、柔道の講道館の二代目となります。

 

派手さのないどしっと落ち着いた書ですね。

 

 

最後は鳥居に書かれた字に注目します。

 

向かって右に「奉 天下泰平」、左に「献 郷中安全 氏子中」

 

と書かれています。

 

裏側には

 

当家十九代六十六歳 
 年表修造之記 平成十五年二月県道拡幅による鳥居の移設工事に際し茲に修理を加え以って原形に復旧せしもの也
 平成十五年四月吉日
  当家第二十三代 伊藤博 改
 嘉永七年甲寅四月吉旦
 石工 大坂西横増 岡田五兵衛
 大門宿石工 清治郎

 

とあります。

 

これは平成15年に再建された鳥居であるらしく、元々は嘉永7年に建てられたものであると書かれています。残念ながら書者名ははっきりとしません。

 

しかし、嘉永と記述があることから、1854年ころのものとわかります。

 

この頃は中山桑林34歳に当たります。すると桑林の字の可能性も浮上します。

 

いずれにせよ、その頃の書の雰囲気を伝えるものとして貴重ですね。

 

前回見て来た子日神社とこちらの神社とでかなりの数の石碑が残されていました。こちらの氷川社に戦争関係が多いのは御祭神と関係しているのでしょうか。

 

詳しくはわかりませんが、とても興味深い神社の対比になったなと思います。

 

アクセス

 

映画・ドラマのロケ地のお店で見つけました。

こんにちは。

 

気づけは年が明けていました。1月も終わってしまいそうです。

 

昨年の話になりますが、外回り中での出来事。

 

お昼をどこで食べようと探していたら見つけてしまいました。

 

 

いかにも昭和チックなレトロな雰囲気が漂います。

 

これだけでも興味深いんですが、Googleマップで画像を探るとさらに興味深い写真が出て来ました。

 

 

「愛がなんだ」と「ひねくれ女のボッチ飯」のロケ地であるそうです。

 

どこで出て来たのか記憶がはっきりとは無いんですが、どっちも見たことがある自分としてはそれだけでテンション爆上がりです。笑

 

とくに「ひねくれ女のボッチ飯」は録画で見ていましたが、それでも夜遅くに見ていたので、飯テロ感にお腹が空いて仕方がなかったです。

 

というわけで、来店しました。

 

 

レトロなお皿に載せられたカレーが実家感を醸し出します。

もう見た目だけで美味しいです。

 

と、これで終わりたいんですが、これだとブログテーマが急に変わってしまうという事態になりかねません。

 

店内を見渡しました。

 

 

店内のメニューが手書きなのがまた良いですね。

 

刻字の額が目に飛び込んできました。

 

「幸楽萬年」と書かれています。

 

幸楽はお店の名前、万年は「長く続きますように」と考えられるので、このお店が長く続くようにという願いが込められた額になりますね。

 

刻者は「中山祥雲」という人物。詳細は不明です。

北区の石碑を調べていくとわかってくるのでしょうか。

 

丁寧な小篆で書かれています。

 

「幸」「楽」「年」の字座(字の重心)が上側なのに対し、「萬」はどうしても下半身になりますが、アンバランスさが強調され、作品に変化をもたらしている好例ですね。

 

アクセス

東京メトロ 南北線 志茂駅より徒歩5分 

なぜ?日光御成街道を挟んで立つ2つの神社。その関係性は? 〜新井宿子日神社

こんにちは。今回は川口市新井宿にある子日神社に参拝して来ました。

 

 

新編武蔵風土記新井宿村の項に

 

新井宿村は江戸より行程五里(約19,6メートル)土人は今西新井宿に対して当村を東新井宿共呼へり正保の改には伊奈半十郎荒川又六郎知行(土地)新井宿村と載せて西新井宿の名を記さず元禄再改の頃より二村を出せり又当村半十郎か知行たりし□は伝ふれと荒川か□を伝へず是を以て按ずるに西新井宿は則此村より分村して又六郎が知行はかの西新井宿なること知るべし
 此村今は戸田領に属せり民戸二十五東は赤山に接し南は浦寺村西は西新井宿根岸の二村に限り北は石神村なり東西三町許南北十一町に余れり村の西の方日光御成道係れり天水を以て水田を耕せば水乏しく旱損あり領主の遷替及び検地等前村に同じ又西新井宿村に当村の飛地ありと云。

 

と記載があります。一部読みづらい箇所があるのですが、ざっくりと訳すと、

 

新井宿は江戸より約20キロ。西新井宿川口市)に対し東新井宿と呼ぶ。正保の改の時、伊奈半十郎荒川又六郎が土地で新井宿と載せて、西新井宿の名前を記すことは無かった。元禄再改の頃より二村が出てきた。また、東新井宿の半十郎が土地であると伝わるも、荒川かは伝わらない。これにより、西新井宿はこの村より分村して又六郎が土地かは西新井宿であることを知る。…西新井宿飛地があると伝わる。

 

と書いてあるようです。

 

元々一つの村であったものの、元禄の頃に二村に分離したという記述があり、こちらは「東新井宿」側です。

 

 

Googleマップで「新井宿」と検索すると現在の土地が括られて出て来ますが、風土記に記載があるように飛地になっているのが確認できます。

 

 

そして、県道105号(日光御成街道)を挟んで2つの神社が向かい合って立っています。こういう例は全国的にも珍しいのではないでしょうか。

 

今回の神社はその右側ですね。

 

こちらの子日神社は天神・山王・稲荷神の合祀であるそうです。子日神社とは聞き慣れない名称であるのですが、全国的には足腰健康にご利益のある神社であるそうです。

 

隣には多宝院という寺院が存在したそうですが、現在は敷地内にあった薬師堂のみが残存するようです。

 

 ※薬師堂のみが現存しています。観音像が見えます。

 

 

 

拝殿を覗き込むと奉納された額が複数ありました。

 

顕忠 
臼倉氏兄弟三人従征清役凱旋捧匾額子祠前為其紀念請予書之
陸軍工兵大尉竹内鉸次郎題并書

(訳)

顕忠
臼倉氏の兄弟三人は日清戦争に従軍した。凱旋して額を子(子日神社のことか)の祠の前に捧げる。その紀念に私にこの書を請われた。

陸軍工兵大尉竹内鉸次郎題并書

 

一つ目は「顕忠」の額。

顕忠とは殉国者と戦没者を弔う語であるようですので、このような訳にしてみました。

 

竹内鉸次郎の詳細は確認できませんでしたが、どうも測量をやっていたらしい形跡が出て来ました。

 

shozokan.kunaicho.go.jp

 

そしてどうやら写真が残っているようです。上のリンクからご覧ください。

 



2つ目は神社社号の奉納額。

 

奉献 正一位子日大権現 清浄金剛拝書

 

と書いてあります。大権現となっていることより神仏混淆の時代に奉納されたことがわかります。書いた人物は隣にあった多宝院の住職とみていいでしょう。

 

 

3つ目は伊勢大大神楽の奉納額。

 

奉奏 伊勢大々御神楽 明治四十四年二月十七日 慶北 臼倉肅道敬書(その他人名略)

 

と書いてあります。

 

臼倉肅道氏はこの神社に複数の字跡があります。これはやや癖の強い行書で書かれています。

 

 

同じく神楽の奉納額。

これは上の額よりも25年ほど古いものです。

 

奉奏 伊勢大々御神楽 明治十八年二月廿二日 卓堂山田輝喜敬書

 

「楽」の字がすごい字形の取り方をしています。

 

 

境内に目を移すと2つの碑がありました。

 

1つ目は参拝記念碑

 

紀元二千六百年記念 伊勢大神宮 橿原神宮 参拝記念碑 臼倉肅道謹書

 

と書かれています。

 

 

もう一つはこちらも伊勢の神楽奉納記念碑

 

伊勢大々御神楽奉奏記念碑
大正十二年二月十三日 臼倉肅道敬書

 

とあります。

 

このように臼倉肅道氏はこの神社だけで3つ字跡を遺しています。

 

これだけ遺しているとなると氏子として力を持っていた人物と想定できます。

 

 

ごつごつとした岩の上に狛犬が居ます。吽の顔が愛くるしい。

 

 

狛犬の足元に「奉献」の文字がありました。「奉」は阿、「献」は吽の下にあります。

 

迫力ある良い字でありますが、作者は不明。

 

最初、明治14年に造られたものの、関東大震災で壊れてしまい、昭和9年に改築したものになるようです。

 

こちらの神社は神楽奉納の記念碑が多いのが印象的です。

 

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全国的にも珍しい!?関鶴羽の手掛けた石碑が至近に存在。その2碑の関係性を探る。 〜藤八新田の天神社

年末も差し迫りました。

ブログを始めて早一年ほど。3日坊主の私がここまで続けられるとは驚きです。

 

普段、何気なく過ごしている日常から「石碑」というものをカッティングしようとすると思った以上に多いのに驚きます。

 

明治時代を中心に数多く立碑された石碑。時代の流れとともにどんどん姿は消しているものの、土地の有力者や有名な書家が書いた石碑は今なおあり続け、その歴史を証明してくれています。

 

さてさて、最初に書いた記事は…。

 

sekihijunyu.hatenablog.com

 

でした。この「中山吉長」という人物、約40年もの間、村長を務めた人物であったようです。

 

その方が書いた石碑がありました。

 

 

碑額は埼玉県知事の川西實三のもの。小篆風の佇まい。

 

 

彫られた部分に見える無数の点々、この技術が難しいそうです。

 

それにしても線の細かいところまでよく表現しているなと感動してしまいます。

 

 

本文は中山吉長のもの。まるで活字のようなきっちりとした楷書です。

 

起筆(線のはじまりの部分)が尖っているのが特徴でしょうか。

 

こういう書き方は日下部鳴鶴より広がったものだと思います。

 

現代でも割合にみる楷書の書き方のひとつですね。

 

さて、本文です。

 

君は嘉永五年安行村藤八新田に生る資性剛直、夙に公共の念に富む明治二十五年村会議員に挙げられ大正十三年に至る。又明治二十九年助役に就任し在職二十六年多年没入役を兼掌す。其他用悪水議員或は委員たり此間克く村長と相諮り村治の向上発展に努め、就中三校分立を統一して初等教育の完璧を図り伝右川組合を組織して用排水事業を達成し半縄坂を開鑿して交通に便する等自治に貢献する前後三十有余年なり。其功労実に没す可からざる者あり昭和三年七十七歳を以て逝去せらる茲に其功績を録して芳し後世に伝ふ。
    昭和十二年八月  中山吉長撰并書

 

村長であった中山吉長と協力して村の自治に貢献したことが述べられています。

 

さきほどの記事の碑「中山吉長頌徳之碑」の立碑に貢献した1人として、この碑の人物、「中山平蔵」も挙げられています。

 

苗字が同じなので、兄弟か親戚関係にあったのでしょう。いずれにせよ中山吉長と中山平蔵の関係性が見えてくるようですね。

 

石工は当時を代表する関鶴羽。

 

 

この碑と中山吉長頌徳之碑は同じ石工。歩いて20分程度の距離に存在します。

 

まだ全然調べられていませんが、この距離感で関氏の碑が存在するのは全国的にも珍しいのではないでしょうか。

 

当時の中山家が絶大な信頼を得ていたのであろうと推測できる気がします。

アクセス

 

この神社は獅子舞が川口市の無形民族文化財に指定されています。

御朱印の有名な神社で、漢字の字源を考え、合祀された神社を想う。〜九重神社

こんにちは、今回は九重神社に参拝してきました。

 

元々は氷川社であったものの、明治時代に周辺の八社を合祀したことで、九重神社に名称が変わったという由緒があります。

 

kokonoejinja.or.jp

 

ご利益がなかなか強そうな感じですね。

 

 

さて、その入り口に社号の碑がありました。

 

「村社九重神社 後藤朝太郎謹書」と書いてあります。

 

この後藤朝太郎は当時、中国通として知られた人物で中国に関する様々な著書を残しています。

 

 ※『漢字の学び方教え方』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

写真が残っていました。写真があると親近感が湧いてきますね。

 

 ※『漢字の学び方教え方』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

漢字の字源(漢字の成り立ちを説明する)を紹介した本を出版しているようです。日本において甲骨文も見て古形から字源を研究した最初の人物ではないでしょうか。

 

字源研究は元にする字により解説が多くわかれる分野であるようですが、試しに、上の画像の「竹」白川静先生の「竹」と比べてみましょう。

 

竹の字は竹の葉が集まって枝について居る様子を写したものである。竹の字をあらわすのに時には必ず竹の葉を印に用い、未だかつてその竹の櫛や竹の皮をもって来たものは見ない。長年の習慣でこれは立派な文字上の約束になっているものと思われる。

 『漢字の学び方教え方』後藤朝太郎 著 p68より

 

竹の葉が枝についている様子が竹の字の字源だと述べています。

 

象形 竹の葉の形。[説文]五上に「冬生の艸なり。象形。下垂する者はホウジャクなり」とあって、ホウジャクとは竹苞をいう。字は竹の皮ではなく、竹の葉の象形である。

 『字統』白川静 著 p611より

 ※竹苞とは竹が群がり生えているように堅固なこと。

 

とあり、ほとんど同じ解説です。

 

2人とも「竹の皮」ではないと言っているのが面白いですね。

 

 

さて、碑陰(碑の裏側)にも文字が刻まれていました。

 

村長勤績四十一年感謝記念
敬神崇祖ノ精神ハ我国体ノ本義ニシテ弥カ上ニモ神社ノ尊厳ヲ保タサル可カラス茲ニ於テ明治四十五年六月五日安行村各大字鎮座ノ神社ヲ併合シテ大字原村社氷川社ニ村社八社即チ赤山領領家神明社慈林氷川稲荷合社藤八新田菅原社吉蔵新田八幡社北谷稲荷社花栗稲荷社苗塚稲荷社小山氷川社外無格社八社ヲ合祀シ奉リ九重神社ト改称ス基本財産ヲ造成シテ是レカ維持確立ヲ図リ以テ村民敬神ノ中心タラシムト云爾
 昭和十四年一月吉日
 奉献者 氏子 中山吉長 源錬拝書

 

とあります。

 

・明治45年6月5日に安行村各大字の神社を併合したこと。

 

・原村の氷川社(九重神社)に八社(領家の神明社、慈林の氷川稲荷社、藤八新田の菅原社、吉藏新田の八幡社、北谷の稲荷社、花栗の稲荷社、苗塚の稲荷社、小山の氷川社)、さらに無格社八社を合祀し、九重神社と改称したこと。

 

が書かれています。合祀された八社を巡るのも楽しいかもしれません。

 

中山吉長はこの辺りではかなり有名な人物です。詳しくは下の記事をお読みください。

 

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碑陰を書いた源錬の人物の詳細は不明ですが、隷書っぽい楷書の書き方が特徴のようです。

 

石工は関戸直利です。

 

御朱印で有名な神社です。御朱印巡りのついでに社号標もじっくり観察してはいかがでしょうか。

 

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水盆探索 〜安行氷川神社

こんにちは。久しぶりになってしまいました。

年末に向けて残業が増えている今日この頃です。

 

 

安行に小さな神社がありました。

 

氷川神社といえば埼玉県内に無数に存在する神社さん。その一つ。

 

昔は古い杉があったようで、現在の社殿は枯死した木の売却代金を当てて改築したそうです。

 

本殿内は見ることができなった記憶がありますが、座像が安置されており、神仏習合の名残を残す神社です。

 

 

手水舎となる水盆に文字「奉献」が刻まれています。

 

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上記の記事で登場していますが、筆者は龍澤さん、石工は青木宗羲さん。

 

こちらは天保13年(1842)の作。

上二つよりも晩年の作。

 

字に落ち着きが出てきたように思います。

 

 

カスレの部分を石にどう表現しようとしたか試行錯誤した形跡があります。ここを普通に削ってしまうと字の判別が付きにくくなるんだろうなと考えると、熟練の判断の凄さを知れる気がします。

 

水盆一つでも見ると意外と情報があって楽しいものです。

 

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古本万歳!! 古本まつりと国会図書館デジタルコレクション

 

もう終わってしまいましたが、今年3年ぶりに開催された神保町の古本まつり。

 

いやいや、大変な盛況で動くスペースもないほど。

 

今年はこのブログを始めたこともあって、今までに買ったことのないジャンルの本も買いました。

 

あと、筆も。。。

 

書道関連は古い作品を対象とすることが多く、古本はもってこいなんです。

 

新しい本を買わなければ出版社はどんどん廃れていくのはわかっていますが、なにせお金がないのが実際のワレワレ一般人は古本を貴重がります。

 

書店の軒先には古い本がならび、貴重な和綴本の作品集が並ぶところも。

 

実際ね、本は手元にあるほうがなにかといいんですよ。積読です。積読

 

でも、でもですよ。

 

増えてくると家が壊れるぐらい資料が多いんですよ。

 

だから、これからはデジタルの時代。

 

実際アプリでも書の有名な作品を集めたものが出てきています。

 

これが無料だというのだから、より出版社はキビシイですよね。

 

すみません。だから、よりキビシイ話を重ねてしまいます。

 

今年の夏頃から一般の人でも本登録を済ませることでみることが可能になった

 

国立国会図書館デジタルコレクション」

 

私はこれで草加市史などを調べて今までこのブログを書いてきました。随分お世話になっています。

 

確か公開の基準としては著作権フリーや絶版本など、今では手にいれるのが難しいものを見れるようにしているところだったと思います。

 

で、フト、書道のものってどれだけあるのだろうと思って調べてみました。

 

  • 書品
  • 書苑
  • 書論
  • 墨美
  • 書道全集(平凡社
  • 定本書道全集
  • 現代書道全集
  • 書道グラフ
  • 書跡名品叢刊

 

少なくとも、これだけの資料は出てきました。(一部のものも含む。)

 

わかる人にはわかると思うのですが、すごい資料の数々。

 

これらの本が書かれた時代は書道の全盛期と言っていい頃で、現代の書壇の方々にも大きな影響を与えた巨匠が論を述べています。

 

今現在でも輝きを放つ論を読んでみてはいかがでしょうか。

 

もちろん、本を買うことも大事だと思っています。笑