石碑巡遊〜手書きの魅力

名文・名筆を求め、各地の史跡・社寺などを巡り紹介していきます。現在、NOTEへ移行中完全移行後、こちらは閉鎖します。

社名の気になる神社。隣市の人物の奉納手水舎が謎を解く? 〜槐戸八幡神社

今回は草加市八幡町にある槐戸(さいかちど)八幡神社に参拝してきました。

 

槐戸とは聞き慣れない地名だったので、気になり調べてみました。

 

news.yahoo.co.jp

 

ありがたいことにネットにありましたので、気になる方はどうぞ。

 

どうも村境に存在している地名のようです。

 

槐の漢字が残っている場所で神社が残っているのは全国的にも珍しいところなのでしょう。

 

 

住宅地にある神社にしてどことなく異質な感じ。神秘的な雰囲気が漂います。

 


手水舎です。この辺りは草加市越谷市の市境、昔は村境に当る場所でもあり、「蒲生の一里塚」が近くにあります。

 

そのためか、この手水舎の奉納者は越谷の人物であるようです。石工は青木宗義、正面の文字も同一人物のものです。

 

sekihijunyu.hatenablog.com

sekihijunyu.hatenablog.com

 

上の二つのブログの手水舎の字は「龍澤」が手がけたものですが、こちらの字は青木宗義のもの。年代的には龍澤のほうが先のようですので、槐戸八幡神社の手水舎ができた天保9年には亡くなっていたのでしょうか。

 

非常にしっかりとした書き振りです。素晴らしい石碑を多く手掛けている石工はやはり字もいいことがわかります。

 

 

境内社の一つ、御嶽山の石碑。

 

 

手入れが行き届いているためでしょうか。存在感ある石碑。

 

彫りもなかなかに丁寧で、細部まで気持ちが行き届いた彫りです。筆者の書き振りまで見えてきそうです。石工は青木庄左エ門。江戸、安政3年の碑です。

 

 

上部には太陽と月の彫りがあります。陰陽を表すものですね。

 

以上、槐戸八幡神社の石碑の紹介でした。社名からして魅力的な神社でした。

 

アクセス

東武スカイツリーライン 新田駅より 徒歩25分

 

明治時代の教育水準は高い!?草加市中根を見守る神社にある日清戦争の碑 〜中根女体神社

こんにちは。今回は草加市中根にある女体神社を参拝してきました。

 

 

中根女体神社とは

まず、地名である中根は『新編武蔵風土記稿』巻4中曽根村の項に

中曽根村は江戸よりの行程及び用水検地等前村(塊戸村:現、草加市旭町、八幡町付近)に同じ家数二十余東北の二方は塊戸村に限り南は篠葉村西は新綾瀬川を境て九左衛門新田なり東西三町余南北十一町水損あり当村も古へより御料所なり

と記載があります。草加は全体的に御料所(幕府の直轄地)が多いようですが、こちらも同様であったようです。

 

 ※google mapより 赤枠内が中根

 

中曽根村は現在「中根」となっていますが、地名の名残を橋に見ることができます。

 

 

マップでいえば「綾瀬川」の中央辺り、「水原秋桜子句碑」の付近です。

sekihijunyu.hatenablog.com 水原秋桜子の句碑はこちらで紹介しています。

武蔵国郡村誌』にこの橋が「村道に属し」とあります。当時は土造であったようです。村の人が隣村に移動する為に造った橋が永く活用され続けていると思うと感慨深いものがありますね。

 

さて、女体神社ですが、村の中央にあり、御祭神は伊奘冉尊イザナミとなっています。江戸では村の鎮守、明治では村社になっているようです。

末社として、稲荷社(笠間神社)、御嶽社、雷電社があります。

 

 

江戸の頃には笠間神社は末社としてあったようです。御嶽神社は『武蔵風土記』には無く、『武蔵国郡村誌』には名前があるので、明治初期頃に建立されたのでしょう。

雷電神社は元々村の西北にあったようです。一人東側を向いて建っているのが印象的です。

 

日本創世の神に、農業神・山の神・雷の神と揃っていますね。

村社であったということで、信仰を集めていたのでしょう。今回紹介する碑の関連も村社であったことが大きいでしょう。

 

日清戦争紀念碑

境内には日清戦争紀念碑と第二次世界大戦紀念碑があります。より資料として興味深かった日清戦争の碑を取り上げます。

 

 

碑額:征清□凱旋紀年碑 雲祥

どうしても3文字目が読めません。『草加の金石』では「役」となっています。

そして、特異なこの篆書。篆書らしいカチッとした雰囲気とクネクネした線のミスマッチさが宗教チックというかなんというか。THE・古代文字!!

 

 

碑文は椿玉華の字。こちらは王道な楷書。この人は書もさることながら、文が素晴らしいものでした。簡単に本文と拙訳を記載してみます。

 

碑文解読

明治廿七年朝鮮有内乱清国欲乗□并呑之

明治27年朝鮮に内乱があり、清国はこれに乗じて朝鮮を併呑した。

 

我皇軫念東洋之平和責清以其愈盟清不肯且要撃我艦於豊嶋

我国の天皇は東洋の平和を軫念(心配すること)し、遂に豊島沖海戦となった。

 

我皇乃赫怒詔親征進纛広島先是六月我軍航海直入韓京七月破牙山八月囲平壌陥之時海軍又鏖戦於黄海大破之

天皇の詔により軍が広島を6月に出港し、韓京に着いた。7月牙山を破り、8月平壌を囲み陥落させ、そのまま海軍は黄海において鏖戦(その場に止まり戦うこと)し勝利した。

 

十月進入満州所向無前九連鳳凰金州大連之諸城望風而潰散十一月我軍海陸竝進攻旅順口掩撃殲之

10月満州に進入した。九連鳳凰金州大連の諸城は潰散した。11月我軍は海・陸の両方から旅順口へ進行しここを殲滅した。

 

明年二月転攻威海衛覆滅之清北洋艦隊窮蹙出降蓋旅順威海衛者東洋無比之要所実為清国之
咽喉於是清国震駭我軍乗勝抜営口田庄□諸壘将大挙衝天津襲北京

明年2月には攻めに転じて威海衛を滅し、清の北洋の艦隊は窮地に立ち、旅順・威海衛から投降者が出た。東洋の無比の要所であり清国の喉元であっため、清国は震え上がった。我が軍は乗じて遼河平原の営口田庄の諸所を勝ち抜き、将兵が天津を衝き北京を襲った。

 

清皇大懼使其臣李鴻章来謝罪請和

清の皇帝は大いに恐れてその臣下である李鴻章を使わして謝罪と和睦を請う。

 

我皇乃許之収台湾嶋及償金三億詔班師而清兵

天皇はこれを許し、台湾と償金三億を要求した。台湾から清兵は脱出した。

 

在台湾者未服拠険反抗我軍撃平之十二月外征将士尽凱旋

しかし、台湾の住民は服従することなく、反抗をした。我が軍はこれらを平定し、12月外征に出ていた将士みな凱旋した。

 

此役我郷出兵三人

この戦役にはわが郷から3人が出兵した。

 

凌酷寒堪烈暑櫛風沐雨二閲年或奮勇於戦陣或出力於土木或衛生或糧餉無不竭其本分

ひどい寒さを凌ぎ、激しい暑さに耐え、雨風にさらされ、2年。戦陣で勇気を奮い、土木に精を出し、食糧の衛生を保ち、その本分を失うことがなかった。

 

頃者衆胥議曰若令此未曾有之盛事物換星移遂帰煙滅則非所以勧奨忠臣鼓舞元気之義也乃建碑
伝之子孫即在治不忘乱之意也

この3人は皆、この未曾有のことが時代が移り変わり(物換星移)遂に消えてなくなることは勧められることではなく、忠臣・鼓舞・義であることを建碑して子孫に伝え、戦争が起こったことを忘れない為である。

 

まとめ

前半は日清戦争の具体的な進軍ルート、後半は戦争に参加した3人の置かれた境遇が書かれています。当時報道か何か、具体的にどこまで知られていたのかは詳しくわかりませんが、この碑文を読む限り、史実にかなり忠実だと感じました。

 

sekihijunyu.hatenablog.com

上の記事ではお隣篠葉の厳島神社にある日清戦争の紀年碑について述べています。

 

この地図の通り、徒歩でわずか12分程度の距離。にもかかわらず、書かれている内容が全く異なり、一方は史実に忠実であり、一方は漢詩を主体に碑文を構成しており、作者も違う。

 

これだけの文章を読み、書ける人物が明治時代には多かったことを証明することにもなりますね。

 

アクセス

東武スカイツリーライン 獨協大学前駅より 徒歩15分

 

草加宿16人衆の一角を支えた女性の歌碑 〜三柱神社

こんにちは。今回は三柱神社を参拝してきました。

 

 

住宅街の細い道に突如として現れる広い空間。敷石がきれいに整備され解放感に満ちています。近年、氏子方の尽力により急速に整備が進められたそうです。よくよく境内を散策すると古い水盤や御神木のような立派な木もあります。

 

この神社の由緒を辿ると元々、この場には第六天神が祀られていたとのこと。『新編武蔵風土記』には「南草加」の条に東福寺持ちで第六天社の名が見えますので、これで間違いないでしょう。

 

第六天はもともと神仏習合の習わしで、仏教の欲望や願いを操る魔王。明治以降は神仏分離により神道夫婦神で神世はこの子供から始まったとされるとあります。

 

そのほかに弁財天社と稲荷社が祀られていますが、弁財天社は花蔵院(廃寺)持ちで、稲荷社はおそらくこの辺りにあった「御殿屋稲荷」のお稲荷さんだと思われます。

 

第六天・弁財天・稲荷の3社が合祀されて現在の三柱神社になっています。

 

ということはご利益はそれぞれの神様のを一度に…。笑

 

 

社紋もあるようです。稲穂は稲荷社、蓮華は弁財天社、中央の葉うちわっぽいものが第六天を表しているのでしょうか。御朱印が頂けるかどうかは知りませんが、なかなか考えられていますね。

 

四角園寿美女歌碑

 

さて、境内に歌碑が一つありました。

四角園寿美の75歳の時の書です。

 

 

ちはやふる 神のめぐみを うるゆへに 世のたのしみは 残るこそ楽し

と書かれています。私は

「素晴らしい神様の恵みを受けたのだから、世の中にやり残したことがあるほど楽しいのだ」

と解釈しましたが、どうでしょうか。

 

四角園は当時、草加宿16人衆のひとつ、亀甲屋(屋号:本名伊藤)の歌号だそうです。

慶応元年1865年長州藩は倒幕の動きを活発化し、再三攻勢をかけていたのを何とか退けていた時、幕府はきびしくなっていた財政を「天下万民挙て尽力可仕は勿論」と上納金を民衆に課し、7両を寄付したのが亀甲屋です。そんな時勢の中で立碑されたのがこの歌碑になります。

 

そんな亀甲屋の妻であったのが、寿美さんです。幕末の動乱の中、それまで信じていた幕府の力が弱まっていくのを目の当たりにしていたのでしょうか。或いは自分はまだまだできるという思いを歌に込めたのでしょうか。

 

字は江戸時代の和様らしい書き振りですが、筆致からは草加宿を代表する家を支えた才媛ぶりを感じます。細い線の冴が素晴らしいですね。

 

三社大神 鳥居額

 

鳥居の額。三社大神と書かれています。印面が潰れてて読み難いのですが、石工としてたびたび登場している青木家(青木石材店)の誰かの文字だそうです。この鳥居も近年造替したそうですが、おそらくその前からここの額としてあったものなのでしょう。

 

こういうコロッとした雰囲気の文字は可愛らしいですね。

 

番外編 弁財天祠

 

参道脇に祠らしきものがありました。お伺いした時間、たまたま氏子の方が境内の掃除をされておりいろいろお話しをお聞きしました。

 

 

普段は石蓋がされていますが、特別に開けていただけました。神社の正面のお宅を解体した際、出てきたという曰く付きの弁財天社です。屋敷神として祀られていたものが時代と共に埋もれてしまったのでしょう。

 

近くに川が流れていますので、その関係で弁財天なのでしょうか。現在は三社神社の末社のような扱いになっているみたいです。

 

「才」字は何を典拠としたのでしょうか。「辨」も「天」も中心線が左に傾く結構なのに対し、「才」が右傾斜になっているアンバラスさがシュールさを醸し出しています。

 

三柱神社は草加宿開宿と関連される唯一という歴史ある神社です。草加宿の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

[出典]『草加市史 通史編 上巻』 『三柱神社御由緒』

 

アクセス

東武スカイツリーライン 草加駅より 徒歩12分

 

建立当初の水盤が残る神社 〜谷塚氷川神社

 こんにちは。今回は草加市谷塚町にある谷塚氷川神社を参拝してきました。

【目次】

 

谷塚氷川神社について

 

 前回参拝した宝持院と同じ谷塚町内にある神社で、旧名:下谷塚村の鎮守です。江戸時代までは別当寺として慈眼寺があったそうです。その名残は参道手前の墓地にみることができます。境内には末社として稲荷社と天神社がありますが、稲荷社は第六天と稲荷・疱瘡神の合祀であるようです。天神社は慈眼寺が廃寺になる時にこちらに移したのでしょう。

 

 『新編武蔵風土記』を読んでいて気になることがありました。この神社の建立年代は天保年間(1830〜)であると境内の案内板に書いてあったのですが、『新編武蔵風土記』の完成は文政13年(〜1830)であるとされています。すると武蔵風土記に記載されているのは違う氷川社となるのでしょうか。詳しい方いたら教えていただきたいです。

 

 

 古い狛犬もありました。なんか哀愁が漂う感じがなんとも言えない味わいです。

水盤「奉献」

 

 「奉献」と刻まれた水盤。

sekihijunyu.hatenablog.com

 こちらで紹介した水盤と同筆者・同刻者です。龍澤さんと青木宗義さん。

 

 

 この水盤の奉納日は「天保二辛卯年9月吉日」(1831年)。この神社の由緒では建立は天保年間とあるので、冷静に考えて建立当時のものを今でも使用していることになります。

 

木村辰之助歌碑

 

 境内の裏手、駐車場の辺りに隠れて立っていました。

世の中を祓ひ清めて
万代に家の栄を
まさるとぞきく

と書いています。「世を神徳によって清めれば末代まで家を栄させることができる」という意味でしょうか。筆者は木村辰之助。浅草の人で70才の時の書。江戸の御家流のような和様チックな書き振りです。碑の建立は大正2年。

 

日露戦没紀念碑

 

 拝殿の手前に碑が乱立しています。中でもこの「日露戦没紀念之碑」は板橋榛嶺の書。

sekihijunyu.hatenablog.com

 こちらの記事の「灯籠」と「遥拝所」が板橋榛嶺の手になります。隷書の名手です。

 

 

 ご時世的にあまりよろしく無いですが、碑の正面に銃剣が刻まれています。刻線が細いので少し分かりづらいですが、これだけ細かい線を刻める刻者の腕の高さがわかります。石工は田口金作です。

 

 以上、谷塚氷川神社の碑をご紹介しました。鎮守として信仰を篤く集めていた神社であることがわかりました。

 

アクセス

東武スカイツリーライン 谷塚駅より 徒歩12分

「こんな字読めるか!!」が解析できる!? みを(miwo)さん。控え目に言って最高です。

 石碑を解読するようになって困ったこと。それは・・・

 

「文字が読めない!」ことです。

 まぁ、一般の方よりは書というものに触れてきた時間が長いと思いますので、草書や仮名でもある程度はスラスラ読める自信はあります。ましてや、過去に石碑を研究され出版された本がありますので、大部分頼ってこのブログを書いてます。

 

 ですが、それでも読めない字に遭遇するのです。そんな時は字書(過去の文字資料を集めた辞書)と睨めっこしながら字を探していくのですが、「もうちょっと楽できないかな?」と探していたら見つけました。

 

みを(miwo):AIくずし字認識アプリ

codh.rois.ac.jp

 

 なんて素晴らしい!!OCRで古文書の解読ができる日が来るとは!!

 

 ということで、早速ダウンロードして試しに臨書(書の練習方法)したものを読んでみました。

 

 

 これがカメラで撮影した状態です。下手ですがお許し下さい。笑

 

 さて、突然ですが、クイズです。

 

 ↑上の臨書の文字はなんと書いているでしょうか。

 

 推測してみて下さい。

 

 みを(miwo)の答えは・・・。

【30%OFF】 【上海筆】 超品長峰 火炬牌 唐筆 羊毛 『書道用品 書道筆 上海工芸 中国筆』

 

 

 読み込んでみると6文字であることを認識してくれました。墨の濃度ミスで滲んでいる部分も多いので、どうなるだろうと思っていましたが、感動ものです。行書とはいえクセの強い文字をそれぞれ認識しているというこの事実、感動した!!

 

 それでも、手書き文字を正確に認識するのは結構難しいので、今回の正解率は50%でした。

 使い方のユーチューブを見ると認識した文字を訂正できるとありましたので、今後のデータ活用になるかもと思い、編集してみました。

 

 

 正しくは上記のように書いてありました。

 皆さんの答えはいかがだったでしょうか。

 

 みを(miwo)は元々、日本の古文書の解析の為に開発されたようですので、こういった中国関係の書を解析するのは難しいのかと思っていました。が、間違いがあったとはいえ、たった数秒で文字が解析されました。現段階では人の眼を通して、合っているか確認する作業が必要になるかもしれませんが、それでも文字を読む手間が相当省けることになります。

 

 将来的には古文書をはじめ、多くの資料を簡単に正しく解析する日もくるのでしょう。楽しみでなりません。

 


www.youtube.com

 

 そうはいっても、一般的にはなかなか使う機会がないかもしれません。ですが、身近にある石碑を観る時や、書道展を観に行かれる時などにも活用できそうですので、そんな機会に恵まれた方はちょっと思い出して頂けるといいかもしれませんね。

 

 

書家と石工の蜜月な関係? 〜高砂八幡神社

 こんにちは。今回は草加駅の近くにある高砂八幡神社に参拝して来ました。

 

www.city.soka.saitama.jp

 

 こちらには草加市市指定有形文化財(工芸品)に指定されている獅子頭があります。

 草加市のHPによると制作年代は江戸末期に当たるのでしょうか。普段は拝殿内に安置されていますので、ご興味ある方は覗いてみるのもおもしろいのではないでしょうか。

 

 

 さて、高砂八幡神社には手水舎を新しく建て替えた際の記念碑が立っています。記銘によると立碑年代は「明治28年(1895)」となります。石工は青木宗次とわかります。

 

 筆者名が不明な碑ですが、草加市内の碑をある程度回ってきて筆者と石工の関係性があることがわかってきましたので、それを元に筆者名の推断していきましょう。

 

 書家と職人との交流の一例を碑に最も多くの名前を残している日下部鳴鶴について記してみるならば「鳴鶴先生に、『うちが彫らないと字は書かない』と言われた」

 (碑刻ー明治・大正・昭和の記念碑 森章二 著 木耳社 p6)

 大前提として日下部鳴鶴という明治を代表する大書家の言にあるように、書家と石工とは蜜月の関係にあったようです。

 明治28年頃に存命している可能性があり、草加市に石碑を残している人物は「板橋榛嶺」「柳坡」の2人がいます。この2人はともに隷書を良くしていますので、十分可能性は高いと思われます。

 そこで、2人の碑の石工を担当した人物を見てみると「板橋榛嶺」の多く(6基中6基)は「田口金作」が担当しています。一方の「柳坡」は「青木宗次」が石工を担当しています(1基中1基)。

 

 次に、各筆者の書を比較してみましょう。

 

 ※板橋榛嶺 書 田口金作 鐫

 

sekihijunyu.hatenablog.com 上記の詳細はこちらです。

 

 ※柳坡 書 青木宗次 鐫

 

sekihijunyu.hatenablog.com 上記の詳細はこちらです。

 

 共に明治28年に近いものを挙げてみました。「板橋榛嶺」の書は穏やかな丸みのある筆致なのに対し、「柳坡」は鋭く厳しい筆致であることを感じて頂けるでしょうか。ここで高砂八幡神社の「洗心場新築紀念碑」をみるとどうでしょうか。

 

 

 雰囲気が近いのは「柳坡」の書ではないでしょうか。隷書の波磔部分(主に横画の波打っているような書き方の部分)は筆者の古典の取り入れ方によって特徴が出易い部分ですので、そこだけ比較してみてもわかり易いと思います。

 

 さて、以上より「洗心場新築紀念碑」の作者は一先ず、「柳坡」という結論で締めさせて頂きます。

 

 次に、肝心の手水舎を覗いてみると草書で立派に書かれた「奉献」の文字が目に入りました。

 

 

 こちらの筆者は「龍澤」という人物。石工は「青木宗義」です。文政6年(1823)の銘があります。先ほどの碑は「新築紀念」となっていたので、元々はこの水盤だけだったのでしょう。

 書家と石工は蜜月の関係であったと先に話しましたが、こちらの「龍澤」と「青木宗義」も同様で、草加市川口市において数基、水盤を遺しています。

 

 「青木宗義」と「宗次」は祖父と孫の関係と思われます。この青木家は「青木石材店」として代々草加市で石材店を営んでいるようです。

 

www.sokacity.or.jp

 

 ちなみに、「田口金作」の田口家は「田口石材店」と思われ、現在も足立区にお店があります。

 

 今回は石工にも視点を当てて見てみました。素晴らしい職人業を堪能できるのも石碑を鑑賞する楽しみでもあります。

 

アクセス

東武スカイツリーライン 草加駅より 徒歩6分

 

橋を架けるのは大変益のある事業なんですね。 〜手代町会館

 先日草加市と足立区に新しい橋「花瀬橋」が架かったとのニュースがありました。新しくできた文教大学のキャンパスも近くにあり、人の交流が増えそうです。

 

www.city.adachi.tokyo.jp

 

 記事によると、橋名は地域の小中学生が揮毫したものが用いられているそうです。素晴らしい試みですね。

 

 さて、今回はそんな「橋」に関わる石碑を発見しましたので、ご紹介します。

 

 

 碑の一部が欠損してしまっています。残念です。

 

 

 碑額には「開街橋記念碑」と小篆で揮毫されています。中国清の時代、復活をみた金石学での初期の頃のような「玉筋篆」が用いられています。日本においても大正時代ぐらいまではこの書き方が主流だったのではないでしょうか。

 

 

 碑文は丁寧な隷書によって書かれています。ところどころ遊びがあり、技巧の優れた人物であったとわかります。

 

 

 さて、この碑の書写は「柳坡」という雅号を持つこと(左から2行目の2字)がわかります。

実はこれ、瀬崎浅間神社の社額と同一の筆者なんです。しかし、残念なことにどちらも雅号のみがはっきりとしていて、姓名の判断がつかないのです。参考図書としている『草加の金石』(昭和59年発行)にもすでに剥落した状態で読めなかったとなっています。

 

 剥落した状態から判断すると何か当たったようにも思えます。下部がキレイに剥がれているとすると自然災害(洪水)などによるものでしょうか。

 

草加町与八幡諸村東西相対□□□流其間故謀両部交通之便者屢欲架□□□不行唯籍渡船来往民太病焉諸人□□□□架橋之事周旋奔走始得諸村賛襄□□□□寅四月越六月遂成民大便焉是□□□□□瘁与篤志者義侠奮勵相合而威□□□□□業之基者也頳之鏤金石以伝不□□□□□㮣 

明治二十五年壬辰第七月□□□□

柳坡 □□□撰并書

草風館 □□□

鐫人 青木宗次

 

 碑文はこのように書かれています。剥落した部分を□で当てましたが、抜けている字数が正しいかどうかは不明です。

 

草加町と八幡の諸村は東西で分離していた、その間は交通も不便であったため、船での往来がメインであった。そこで、橋を架けることが急務となり諸村を奔走した人物がいた。

四月から六月になり、遂に橋が完成し、民はその便利さを享受した。

橋の完成に奮励したことを讃えてこの碑を造る。

 

 ざっくりですが、訳すとこんな感じになるでしょうか。この「開街橋」がどこにあるか不明なのも残念です。

 

アクセス

東武バス 手代町会館・手代町会館南 バス停下車 そば