石碑巡遊〜手書きの魅力

名文・名筆を求め、各地の史跡・社寺などを巡り紹介していきます。現在、NOTEへ移行中完全移行後、こちらは閉鎖します。

草加宿16人衆の一角を支えた女性の歌碑 〜三柱神社

こんにちは。今回は三柱神社を参拝してきました。

 

 

住宅街の細い道に突如として現れる広い空間。敷石がきれいに整備され解放感に満ちています。近年、氏子方の尽力により急速に整備が進められたそうです。よくよく境内を散策すると古い水盤や御神木のような立派な木もあります。

 

この神社の由緒を辿ると元々、この場には第六天神が祀られていたとのこと。『新編武蔵風土記』には「南草加」の条に東福寺持ちで第六天社の名が見えますので、これで間違いないでしょう。

 

第六天はもともと神仏習合の習わしで、仏教の欲望や願いを操る魔王。明治以降は神仏分離により神道夫婦神で神世はこの子供から始まったとされるとあります。

 

そのほかに弁財天社と稲荷社が祀られていますが、弁財天社は花蔵院(廃寺)持ちで、稲荷社はおそらくこの辺りにあった「御殿屋稲荷」のお稲荷さんだと思われます。

 

第六天・弁財天・稲荷の3社が合祀されて現在の三柱神社になっています。

 

ということはご利益はそれぞれの神様のを一度に…。笑

 

 

社紋もあるようです。稲穂は稲荷社、蓮華は弁財天社、中央の葉うちわっぽいものが第六天を表しているのでしょうか。御朱印が頂けるかどうかは知りませんが、なかなか考えられていますね。

 

四角園寿美女歌碑

 

さて、境内に歌碑が一つありました。

四角園寿美の75歳の時の書です。

 

 

ちはやふる 神のめぐみを うるゆへに 世のたのしみは 残るこそ楽し

と書かれています。私は

「素晴らしい神様の恵みを受けたのだから、世の中にやり残したことがあるほど楽しいのだ」

と解釈しましたが、どうでしょうか。

 

四角園は当時、草加宿16人衆のひとつ、亀甲屋(屋号:本名伊藤)の歌号だそうです。

慶応元年1865年長州藩は倒幕の動きを活発化し、再三攻勢をかけていたのを何とか退けていた時、幕府はきびしくなっていた財政を「天下万民挙て尽力可仕は勿論」と上納金を民衆に課し、7両を寄付したのが亀甲屋です。そんな時勢の中で立碑されたのがこの歌碑になります。

 

そんな亀甲屋の妻であったのが、寿美さんです。幕末の動乱の中、それまで信じていた幕府の力が弱まっていくのを目の当たりにしていたのでしょうか。或いは自分はまだまだできるという思いを歌に込めたのでしょうか。

 

字は江戸時代の和様らしい書き振りですが、筆致からは草加宿を代表する家を支えた才媛ぶりを感じます。細い線の冴が素晴らしいですね。

 

三社大神 鳥居額

 

鳥居の額。三社大神と書かれています。印面が潰れてて読み難いのですが、石工としてたびたび登場している青木家(青木石材店)の誰かの文字だそうです。この鳥居も近年造替したそうですが、おそらくその前からここの額としてあったものなのでしょう。

 

こういうコロッとした雰囲気の文字は可愛らしいですね。

 

番外編 弁財天祠

 

参道脇に祠らしきものがありました。お伺いした時間、たまたま氏子の方が境内の掃除をされておりいろいろお話しをお聞きしました。

 

 

普段は石蓋がされていますが、特別に開けていただけました。神社の正面のお宅を解体した際、出てきたという曰く付きの弁財天社です。屋敷神として祀られていたものが時代と共に埋もれてしまったのでしょう。

 

近くに川が流れていますので、その関係で弁財天なのでしょうか。現在は三社神社の末社のような扱いになっているみたいです。

 

「才」字は何を典拠としたのでしょうか。「辨」も「天」も中心線が左に傾く結構なのに対し、「才」が右傾斜になっているアンバラスさがシュールさを醸し出しています。

 

三柱神社は草加宿開宿と関連される唯一という歴史ある神社です。草加宿の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

[出典]『草加市史 通史編 上巻』 『三柱神社御由緒』

 

アクセス

東武スカイツリーライン 草加駅より 徒歩12分