富士山信仰を象徴する神社の境内碑 〜瀬崎浅間神社
こんにちは。今回は以前に紹介した瀬崎浅間神社にあるさまざまな碑を見ていきたいと思います。
以前のものはこちら。
さて、紹介すると言ったものの、あまりにも多いので目次立てていきます。
目次
○伊勢参宮紀念碑
まずはこちら。伊勢参宮紀念碑です。板橋榛嶺の書。前に紹介した共益講道路修繕記念碑の2年後の碑になりますが、碑の大きさ故か、伸びやかさが加えられ揺るぎない波勢を誇ります。
※以前紹介したものはこちら。
こちらはまぎれもなく伊勢神宮を参拝した証の紀念碑になります。各地に結構な数の同種の碑をみますが、筆者名が刻まれているのは割と少ないように思います。
それにしても碑に興味をもち、神社への参拝が増えるようになりましたが、知れば知るほど伊勢神宮は参拝してみたくなります。今は交通手段が発達して行きやすくなりましたが、昔は「一生に一度」と参拝することがあこがれでもあったようですので、それを記念して碑を建てるというのは何も不思議がありませんね。
○御神楽殿改築記念碑
続いては神楽殿を改築した記念の碑です。木村剛石68歳の書。岐阜出身だそうですが、埼玉県の高校で教鞭を振るっていたことがあるようです。先の伊勢参宮紀念碑と比較すると鋭い筆致で厳しさを感じます。同じ隷書という書体でも書く人によって雰囲気が変わるのが書道の面白いところであり、碑を見る上での面白さでもあります。
碑陰(碑の裏側)は浅古清三の書。小楷の巧さが際立ちます。
浅古氏は当時この一帯の有力者であったようで、浅間神社お隣の善福寺に菩提所があります。草加の歴史の一端に触れられたような気持ちを味わえました。
○瀬崎浅間神社 社額
小篆という篆書で書かれた社額です。「柳坡謹書」と筆者名が入っています。この人もなかなかな隷書碑を残していますが、それはまた別の機会にご紹介します。
○国威宣揚 塔
昭和15年に皇紀2600年を紀念して建てた塔。筆者名として八隅部隊と入っているように読めますので、おそらく軍隊所属の人の文字でしょう。気運が第二次世界大戦に向かうなか、「贅沢は敵だ」という中にありつつも、国を挙げての式典を行い士気を上げたのでしょうか。今なお、同じような境遇にある国があると思うと心が痛みます。
○灯籠
鳥居の側に立派な対の灯籠があります。
左の灯籠の台座には「去暝」(暗闇が去る)、右には「発光」(光を放つ)と隷書で書かれています。共に伊勢参宮碑と同様に板橋榛嶺の書です。
伊勢参宮碑よりも20年近く前のものです。お手本のような書き振りです。
○遥拝所
行書で書かれた「遥拝所」の碑。板橋菊(榛嶺)の書です。上記の灯籠の1年後の作品。若さ溢れるエネルギッシュな作に見えます。これだけ見るとこの人は隷書よりも行書のほうが得意だったのではないかと思えてなりません。
○御手洗
境内には稲荷神社があるのですが、その裏手にあります。江戸・文久3年、橋知徳の書。
御手洗とは今でいうトイレではなく、手水舎のことのようです。多くの手水舎には概ね「奉献」等が刻まれていますので、具体的に「手水舎はここです。」と示す文字が刻まれているのは珍しいのかもしれません。大きさからして、遠くからでも認識できることを意識しているように思います。当時はそれだけ参拝者が多くいたことを示すことにもなりそうですね。
以上、瀬崎浅間神社にある碑をみてきました。実は境内にはまだまだ碑があり、特に富士山を模した富士塚(瀬崎の富士塚)には無数の参拝記念碑が突き刺さっており、富士山信仰を物語る貴重な存在です。ただ、立ち入れないことと、筆者名が書かれていないと判断したため、私の目的からは外れると判断し載せていません。散歩がてらの参拝としていかがでしょうか。