石碑巡遊〜手書きの魅力

名文・名筆を求め、各地の史跡・社寺などを巡り紹介していきます。現在、NOTEへ移行中完全移行後、こちらは閉鎖します。

親子二代に渡って信仰のあり方が述べられている碑、澆季の世が来る日を危惧した撰文者の眼

 東武スカイツリーライン谷塚駅の東口を出て真っ直ぐ進むと、右手に見えてくるのが今回の碑がある瀬崎浅間神社です。

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 宮司が常住していないものの地元民から親しまれているお宮さんで、碑を調べている時も参拝者が多くいらしていました。

 このお宮は名の如く富士山信仰で盛んだった様子で、境内には数多くの富士登山碑が建っています。それ以外にも多くの碑があります。碑の数でいえば草加随一であるかもしれません。

 

 さて、正面に鳥居を据え、右手に入るとこの碑が建っています。

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 題額は東久世通禧。政治家です。木の陰で見えずらいですが、実直な雰囲気が伝わってくる字ですね。

 

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 碑文はおそらく正誉温恨という人物の字。撰文者はこちらもおそらく正誉舜達。名前からしてお寺の関係者っぽい感じがしています。神社のお隣に善福寺というお寺がありますが、その関係者ではないかと思っています。(調査中です。)

 字は行意を多く含んだ楷書と言ったところでしょうか。彫りが深いのはいいものの、線が細く、読みにくくなっている箇所が多いです。筆致のするどさが気持ちいいです。

 

 では、本文を読んでいきましょう。

 

 翁姓昼間氏通称助右衛門号得寿。(翁、姓を昼間氏・通称助右衛門といい、得寿と号した。) 

 考諱速到妣切敷氏。(亡父の諱は速。亡母は切敷氏である。)

 翁性温恭正直。幼而勤倹励業孳孳弗懈爰以家勢栄昌。(翁の性格は温恭正直。幼少より勤勉で倹約に仕事に励み、ゆるまることは無かったので、一族はますます栄えていった。)※温恭正直:【おだやかで慎み深く、正直】

 翁最厚慈善之志、一郷敬慕恰如慈親。且深信神仏、殊仰冨士浅間之神徳。(翁は最も事前事業を厚くし、あたかも親の慈しみのように故郷を敬った。かつ深く神仏を信じ、殊に冨士浅間神社の神徳を仰いだ。)

 一日詣社前誓曰吾願登岳三十三回則毎歳一回。(ある日参拝し神前に「私は毎年一回ずつ33回富士山に登ることを誓う。」と。)

 不懈竟達其志、又為村社百方経営維持得宜累年而果其志焉。(怠ることなくその志を達成し、また村社百方の経営維持を得て年を重ねるごとに実を結んだのはその志のなせることだった。)

 翁曰吾所欲為者既為之、無全遺憾。而所以其為此者皆因神明之加護耳。傾年既耳順(翁は「私はしたいことはすでにでき、全く残念に思うことはない。これができたのもこれは皆神明の加護によるものである。年を経るごとによりすなおに理解できるようになった。」と言っていた。)

 悠悠自適以養老、乃譲家於世子隠退、又不関家事焉。(悠々自適に年を重ね、家督を後継に託し隠退して、家の事には関わらなかった。 )

 偶明治廿八年十月廿七日罹病竟不起、距生文政六年一月四日得寿、七十有三葬于善福寺兆域配切敷氏。明治28年10月27日病を患ったのを境に起き上がれなくなり、文政6年1月4日に生を享けてからの73歳の生涯を全うし、善福寺の墓地に切敷氏に並び埋葬された。)※兆域:【墓地のこと。】

 一男三女、男云菊蔵嗣家、三女各帰嫁。(一男三女の子の内、息子の菊蔵は家を継ぎ、三人の娘は各々嫁になった。)

 菊蔵聿修祖徳継承、先志。又深信神仏、献畑百五十餘坪村社、永供神饌之資。(菊蔵は祖先の徳にならって徳を継承し、先のこと(富士登山33回など)を志す。また、神仏を深く信じ、畑百五十餘坪を村社に献上し、永く資金を神饌としてそなえた。)

 遂報本反始之志於是乎。(遂にここに於いてもとにかえり、その恩にむくいた。)※報本反始:【もとにかえり、その恩にむくいること】

 欲不朽其事来属文於余余曰令也。(今までのことを文として不朽のものとしたいと命じた。)

 澆季以信神仏為迷信不詈則笑之。(人情が薄く風俗が乱れた世になった時、神仏を信じることが迷信であるならば罵らずにこれを笑うであろう。 )※澆季:【人情が薄く風俗が乱れた世になった時】

 翁父子信神仏如此、神仏之冥助。吾復不疑也。宜哉翁家至今愈栄益昌也。(翁父子の神仏を信じることこの如く、神仏の冥助を得。私はそれを疑わない。ちょうど翁の家は今に至り、いよいよ栄え盛んである。)

 

 実際に善福寺には昼間氏(本人のお墓かはわかりません)のお墓がありました。善福寺にはこの碑の立碑の立役者である浅古氏のお墓もあり、瀬崎村において中心的なお寺であったことが想像できます。

 また、碑文中に出てくる息子の「菊蔵」さん。瀬崎浅間神社のみならず、至るところで「板橋菊蔵(半嶺)」の書を見ることができます。もしかすると同一人物かもしれませんね。

 さて、撰文者が危惧した澆季な未来となっていないでしょうか。近所同士の付き合いも減り、機会化により便利になる一方の現代。コロナにより自殺者が増えたのは記憶に新しいことであると思います。不安な時こそすがるものが必要ですね。神仏を信じる信じないはともかく、先達者より笑われないようにと気を引き締められる碑でした。

 

参考文献『草加の金石』