全国的にも珍しい!?関鶴羽の手掛けた石碑が至近に存在。その2碑の関係性を探る。 〜藤八新田の天神社
年末も差し迫りました。
ブログを始めて早一年ほど。3日坊主の私がここまで続けられるとは驚きです。
普段、何気なく過ごしている日常から「石碑」というものをカッティングしようとすると思った以上に多いのに驚きます。
明治時代を中心に数多く立碑された石碑。時代の流れとともにどんどん姿は消しているものの、土地の有力者や有名な書家が書いた石碑は今なおあり続け、その歴史を証明してくれています。
さてさて、最初に書いた記事は…。
でした。この「中山吉長」という人物、約40年もの間、村長を務めた人物であったようです。
その方が書いた石碑がありました。
碑額は埼玉県知事の川西實三のもの。小篆風の佇まい。
彫られた部分に見える無数の点々、この技術が難しいそうです。
それにしても線の細かいところまでよく表現しているなと感動してしまいます。
本文は中山吉長のもの。まるで活字のようなきっちりとした楷書です。
起筆(線のはじまりの部分)が尖っているのが特徴でしょうか。
こういう書き方は日下部鳴鶴より広がったものだと思います。
現代でも割合にみる楷書の書き方のひとつですね。
さて、本文です。
君は嘉永五年安行村藤八新田に生る資性剛直、夙に公共の念に富む明治二十五年村会議員に挙げられ大正十三年に至る。又明治二十九年助役に就任し在職二十六年多年没入役を兼掌す。其他用悪水議員或は委員たり此間克く村長と相諮り村治の向上発展に努め、就中三校分立を統一して初等教育の完璧を図り伝右川組合を組織して用排水事業を達成し半縄坂を開鑿して交通に便する等自治に貢献する前後三十有余年なり。其功労実に没す可からざる者あり昭和三年七十七歳を以て逝去せらる茲に其功績を録して芳し後世に伝ふ。
昭和十二年八月 中山吉長撰并書
村長であった中山吉長と協力して村の自治に貢献したことが述べられています。
さきほどの記事の碑「中山吉長頌徳之碑」の立碑に貢献した1人として、この碑の人物、「中山平蔵」も挙げられています。
苗字が同じなので、兄弟か親戚関係にあったのでしょう。いずれにせよ中山吉長と中山平蔵の関係性が見えてくるようですね。
石工は当時を代表する関鶴羽。
この碑と中山吉長頌徳之碑は同じ石工。歩いて20分程度の距離に存在します。
まだ全然調べられていませんが、この距離感で関氏の碑が存在するのは全国的にも珍しいのではないでしょうか。
当時の中山家が絶大な信頼を得ていたのであろうと推測できる気がします。
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