石碑巡遊〜手書きの魅力

名文・名筆を求め、各地の史跡・社寺などを巡り紹介していきます。現在、NOTEへ移行中完全移行後、こちらは閉鎖します。

篠葉厳島神社 〜神社の由緒記

 草加市弁天の北部に鎮座する厳島神社。隣には観正院というお寺があり、比較的交通量の多い越戸橋通りに参道が接しているにも関わらず、境内は住宅街ならではの静けさに包まれています。ここの厳島神社は正式名称を篠葉厳島神社といい、なんでも篠竹という竹が繁茂していたことがが地名の由来になるそうです。近くの篠葉公園にその地名の名残をみることができます。

 所在地:〒340-0004 埼玉県草加市弁天6丁目7

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 拝殿を正面に2つの碑が向かい合うように建っており、今回はその左側の碑「厳島神社記」を見ていきましょう。

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目次  

 

厳島神社記 撰文者及び書者 加藤政之助

 加藤政之助は福沢諭吉五代友厚と同世代の人物です。現:埼玉県鴻巣市の出身で、大東文化大学の第7代総長を務めます。孫には社会学者の加藤諦三がいます。

楷書碑額 「厳島神社記」

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行草書・変体仮名混じりの碑陽

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 主に行書を中心にした漢字と草書による変体仮名を混ぜた漢字仮名混じりの書です。単体で書かれているものの、草書なのか変体仮名なのか判断に困るところもあり、やや読みにくさを感じますね。しかし、読んでいくと不思議と判断がついてきます。明治の人はこれを普通に読んでいたのでしょうから頭が下がります。

 書風の特徴として仮名文字は右回転が強いようです。漢字は楷書に近い結構や草書に近い簡略化の文字(写真最後の3、4行目下の「余」と「恭」)など統一感がありませんが、全体的に扁平にみえます。王羲之の影響は当然強いのでしょうが、古典よりも自分の字で書いているという印象を受けます。

 

碑文釈文

  武蔵国北足立郡新田村大字條葉字宮沼の厳島神社は昔者人皇五十二
  代嵯峨天皇の御宇弘法大師相州津村の湊に於て祈願の際天女の像を
  夢幻し刻して之を秘蔵す後風波に遭ふて海に投ず降りて永禄十二年
  当所の沼中に於て此尊像を発見し里人祠を其傍に建て之を安置し弁
  財天と号し奉れるに始る爾来遠近の民信仰深く或は田畑を寄付し或
  は金品を奉納す元和三年時の官府東照大権現の号を此社に奉る次て
  明治政府神仏の混淆を忌み同元年の秋祭神を市杵島姫命と定め社号
  を厳島神社と改む神殿又は拝殿を改築すること寛永十五年九月享保
  十三年正月天明三年二月文化四年十二月天保十一年正月前後五回に
  及ぶ明治三十三年十月復里人官等の下付を請ひ信者の寄付金六百余
  円を集め神殿の改築を行ひ五十有七戸三百八十有九人の氏子諸君恭
  しく祭祀の典を挙らる乃は嘱に依り之か記を作る
     明治三十四年六月     衆議院議員加藤政之助撰書

 ※一行30字13行

 

碑文意訳

 武蔵の国、北足立郡新田村大字條葉字宮沼の厳島神社は昔、第52代天皇嵯峨天皇の時代に弘法大師空海が相州津村(現:江ノ島の辺り)の港にて祈願した際の天女の像を夢にみて刻してこれを秘蔵とした。その後、嵐にあって天女の像を海に落としてしまった。時代は下り、1569年(戦国時代)この地の沼中からこの天女の像を発見し、里の人は祠をそばに建てて安置し、弁財天と号し奉りはじめた。遠近を問わず、人々の信仰を集め、田畑の寄付や金品の奉納があった。
 1617年(江戸時代)時の官庁の東照大権現徳川家康の神号)の号をこのお社に奉った。明治政府になり、神仏混合を忌み、1868年(明治元年)の秋、祭神を市杵島姫命イチキシマヒメ:絶世の美女とされ、商売繁盛、芸能、金運、勝負、豊漁、交通安全、五穀豊穣、海の神として信仰:弁財天との習合か)と定め、社号を厳島神社と改める。神殿と拝殿を改築すること、1638年9月、1728年正月、1738年2月、1807年12月、1840年正月の5回に及ぶ。1900年10月また郷の人が官木(天然木)の下付をお願いし、信者の寄付金が600円余り(約230万円)になり、神殿の改築を行なった。57戸389人の氏子の方々、恭しく祭祀を行い、この記を作る。

 この記によるとこの厳島神社の祭神は空海が刻した天女の像となります。時代を経て何度も社号が変わったようですが、弁財天(仏教)から市杵島姫命神道)に変化しています。これはよくあることで、広島の厳島神社も弁財天と市杵島姫命の習合からなっているという説もあるそうです。なぜ江ノ島で彫られた像が草加で発見されるのか疑問は尽きませんが、少なくとも1569年辺りに創建された神社であり、以降この地を守護してくれたということでしょう。
 隣には観正院というお寺がありますが、こちらの開山は1605年で、40年ほど隔たりがあります。こちらのお寺は徳川家康が没するとともに寺号を変えているそうなので、「東照大権現の号を此社に奉る」の意味が不思議でなりません。識者の方よろしくお願い致します。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。 

次回は向かい合わせにある「征清凱旋頌碑」を見ていきます。