石碑巡遊〜手書きの魅力

名文・名筆を求め、各地の史跡・社寺などを巡り紹介していきます。現在、NOTEへ移行中完全移行後、こちらは閉鎖します。

あと30年ほどで立碑200年を迎える神社の由緒記。いろいろと珍しい碑でもあるんです。

 東武スカイツリーライン新田駅から程近く、住宅に囲まれた一画に佇む天満宮。地域の方のお力で、境内はきれいに整備されています。

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 さて、こちらには江戸時代から建つ碑があり、今まで幾つか紹介してきた碑の中では最古のものになります。碑の傍には内容を書き下した説明板があり、このお宮の見どころの一つにこの碑がなっているようです。それでは、全体を見てみましょう。

 

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 石を切り出した以外は自然のままの形を活かしたのでしょう。あまり大きな碑ではありませんが、いかにも日本らしいつつましやかな碑ですね。それにしても江戸時代に建てられたにも関わらず、状態が素晴らしいです。あと30年ほどで200年経つとは信じられません。

 

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 個人的な調べによるものですが、江戸時代のものに書者名を想像できるものが書いてあるのは比較的珍しい部類に入ります。碑の内容を読んでいくとわかるのですが、この碑は神社の由緒碑であるだけでなく、筆者の猪野治兵衛知基の先祖の功績を讃えるものであるとも想像できます。その為に名前が明記されているのでしょう。いずれにせよNHKの大河などでたまにみるいわゆる読めない崩し字ではなく、当時の人のかしこまった書き方が伺いしれるのは貴重です。

 

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 一見すると漢字のみで書かれているように見えますが、所々、漢字の右下にカタカナが漢文の送り仮名のように添えられています(3行目「…勝モ処士ト成」など)。カタカナは元々、仏典を日本語訳する為に用いられるようになった表記ですので、もしかするとその名残が江戸時代までは残っていたのかもしれません。

 

 さて、本文を読んでいきましょう。

願主 猪野治兵衛知基謹記(願主 猪野治兵衛知基 謹んで記す。)

于時嘉永六癸丑年五月吉日(時に嘉永6癸丑年(1853)年5月吉日)

抑、当社天満宮開基繹に万治元戊戌年野州佐野住人、(そもそも、当社天満宮の開基をたずねると万治元戊戌年(1658)、下野の国(栃木県)佐野の住人、)

猪野監物藤原知吉嫡子、同苗九左衛門知勝之息男、治左衛門知秀造営也。(猪野監物藤原知吉の嫡子、猪野九左衛門知勝の息男、治左衛門知秀の造営地なり。)

其事蹟考に修理大夫故有て故被改易。(その事績を考えるに、修理大夫がゆえあって、武士の籍を削らされる。)※改易:【武士の籍を削られること】

因茲九左衛門知勝も処士と成領家村民間に隠居す。(よって、ここに九左衛門知勝も浪人と成りて領家村民間に隠居す。)

常地理宜視、寛永三丙寅年当所え水縄入。(常に地理をよくみて、寛永3丙寅年(1626)当所へ検地入る。)※水縄:【検地】

同六己巳年、沼地四拾一町三反一畝十六歩菑田と成処上田と成。 (同6己巳年(1629)、沼地41町3反1畝16歩の荒田となるところを上田と成す。)

民説郷中繁栄す。故九左衛門新田と号於此。(民はよろこび郷中繁栄す。ゆえに九左衛門新田とここを名付ける。)

猪野治左衛門知秀親九左衛門知勝許多之沼地菑田とし上田と成。(猪野治左衛門知秀の親、九左衛門知勝はあまたの沼地を荒田とし上田と成す。)

民間此説郷中繁栄令成勲功思。(民はこれをよろこび郷中は繁栄してその功績を思う。)

弥米穀豊饒、凶年無災様為祈。猶以天下泰平、村中安穏、末代之惣領守と令成以心。(いよいよ五穀豊饒、凶年災いがないように祈る。なおもって天下泰平、村中安穏、末代の総領守として心をもって務めあげる。)

万治元戊戌年十一月廛舎側に天神社造営す。(万治元戊戌年(1658)11月屋敷のそばに天神社を造営す。)

治左衛門知秀、其神徳霊成を感。願力不休夙夜無懈事。(治左衛門知秀は、その神徳の霊威を感ず。願力休まず朝も夜もおこたることなし。)※夙夜:【朝も夜も】

夜以日継朝には斎明盛服礼容を成て信之。夕には敬遠感挌誠に存て崇之。(夜昼なく朝には衣服と心をととのえてこれを信ず。夕には敬う誠をもってこれを崇む。)

或時幣帛棒豊饒祈、又酒美供禍災除。(ある時は幣帛を捧げて豊饒を祈り、また酒美を供えてわざわいを除く。)

凡患難疾疫願為一と不利験無云事神徳厳然たり。(凡ての災い、病い一として、利験ないことはなかった。神徳は厳然たるものである。)※患難:【わざわい】

然処、宮社就破損、此度惣氏子抽丹誠、宮再建。并敷石成就す(しかし、宮社が破損したので、この度総ての氏子が真心を寄せ合い、宮を再建した。ならびに敷石も成就す。)

仍神徳を無窮伝へ寿考無彊郷中安全氏子繁昌願万代不朽遺忘為供し縁起碑建之。(よって神徳を永遠に伝え末長く郷中の安全と氏子の繁昌を願い、万代不朽に忘れ去られないために供える為、ここに縁起碑を建つ。)※寿考無彊:【末長く】

 

 本文からもわかるように、この天満宮は元々、猪野家のそばに建っていたもので、ほぼほぼ屋敷神という扱いだったのでしょう。当初の家主、治左衛門知秀さんが毎日祈願したので、繁栄したという様子が描かれています。しかし、再建は氏子の力によるところも大きかったようなので、地元の方に愛されていたお宮であったのだろうと想像できますね。

 

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 碑陰(碑の裏側)を見ると嘉永5年にお宮を再建したことがわかるので、この時に立碑を決めて翌年に完成を見たのでしょう。碑陽(碑の表側)の字と比較すると同一筆者のはずですが、碑陰のほうが伸びやかに書かれているように思えます。表と裏で字の雰囲気が変わるのも碑を見る楽しみの一つです。

 

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 筆者である猪野治兵衛知基花押(サイン)もあります。これまた珍しいです。江戸時代ならではですね。

 参考文献:『草加の金石』「旭天満宮境内設置 縁起碑解読板」

 

 お宮の近くには草加市中華の代表的チェーン店「珍来」と遥か昔からある中華「栃尾」があります。お近くに来た際はぜひ。