源義経が通った橋を語る碑。側には空襲の悲惨さを伝える銅像も…。
こんにちは、今回は「鎌倉橋の碑」を見てきました。
写真だとわかり辛いですが、本のような見開き型の碑です。右側に題字として「鎌倉橋の碑」橋は異体字を当てています。
川口に「鎌倉」という地名があるのは何でかと気になったのですが、それはばっちりと説明板に記載がありました。
かつてここは奥州に繋がる要所であったとのこと。かの源義経も通った橋とあります。
本文を読んでみましょう。
昭和三十五年八月
鎌倉橋はかつて荒川のかたわら舟戸が原を流れていた小川にかけられた橋でこの碑の南方約一二〇メートルの地点現在川口市立南中学校の校庭にその礎石を残しています。鎌倉橋と呼ぶその名はこれが奥州へ通う枢要な鎌倉街道に架設されていた橋であることを示しています。
義経記にも治承四年(一一八〇年)源義経が兄頼朝の挙兵に応じて平泉を発し武蔵国足立郡こがわぐちを過ぎる時従う軍勢は八十五騎と記して当時すでにこの地奥州への街道の要所であったことを伝えています。
わが川口はこの街道の道筋として発展し今日のこの繁栄の基を築いたもので鋳物業がこの地に興ったのも実にこのためであります。鎌倉橋の史蹟はこの次第を語りわが市の遠い起源をここに伝えています。郷土川口の限りない進展を願うわれらはこの史蹟の語る声なき声に本市創始のいにしえをしのび雄大なる未来創造の英気をここにくみとりましょう。
『埼玉県市町村誌 第一巻』p162より
とあります。岩手県の平泉を発してここを通ったとの記載がありますが、中尊寺辺りを出発したとして、この碑まで約420キロあるようです。Googleマップの徒歩で計算して87時間ほどとのこと。この後、兄の頼朝に会うまであと80キロほどあるようです。
幾ら馬といっても3、4日ほどは移動しっぱなしだったと思うのですが、その体力には恐れ入ります。
誰が書いたか記載はありませんでした。全体を見るとちょっと辿々しい感じを受けます。
しかし、臨書してみると結構のしっかりした感はあります。おそらく、柔らかい筆で書いたためにこうなったと思われます。
そばには「空からの火」と題された東京大空襲を題材とした銅像が立っています。作者は岩田健氏。
荒川土手脇にある小さな空間で大移動の勢いと戦争の悲しみをみつめることができました。