明治時代の教育水準は高い!?草加市中根を見守る神社にある日清戦争の碑 〜中根女体神社
こんにちは。今回は草加市中根にある女体神社を参拝してきました。
中根女体神社とは
まず、地名である中根は『新編武蔵風土記稿』巻4中曽根村の項に
中曽根村は江戸よりの行程及び用水検地等前村(塊戸村:現、草加市旭町、八幡町付近)に同じ家数二十余東北の二方は塊戸村に限り南は篠葉村西は新綾瀬川を境て九左衛門新田なり東西三町余南北十一町水損あり当村も古へより御料所なり
と記載があります。草加は全体的に御料所(幕府の直轄地)が多いようですが、こちらも同様であったようです。
※google mapより 赤枠内が中根
中曽根村は現在「中根」となっていますが、地名の名残を橋に見ることができます。
マップでいえば「綾瀬川」の中央辺り、「水原秋桜子句碑」の付近です。
sekihijunyu.hatenablog.com 水原秋桜子の句碑はこちらで紹介しています。
『武蔵国郡村誌』にこの橋が「村道に属し」とあります。当時は土造であったようです。村の人が隣村に移動する為に造った橋が永く活用され続けていると思うと感慨深いものがありますね。
さて、女体神社ですが、村の中央にあり、御祭神は伊奘冉尊(イザナミ)となっています。江戸では村の鎮守、明治では村社になっているようです。
江戸の頃には笠間神社は末社としてあったようです。御嶽神社は『武蔵風土記』には無く、『武蔵国郡村誌』には名前があるので、明治初期頃に建立されたのでしょう。
雷電神社は元々村の西北にあったようです。一人東側を向いて建っているのが印象的です。
日本創世の神に、農業神・山の神・雷の神と揃っていますね。
村社であったということで、信仰を集めていたのでしょう。今回紹介する碑の関連も村社であったことが大きいでしょう。
日清戦争紀念碑
境内には日清戦争紀念碑と第二次世界大戦紀念碑があります。より資料として興味深かった日清戦争の碑を取り上げます。
碑額:征清□凱旋紀年碑 雲祥
どうしても3文字目が読めません。『草加の金石』では「役」となっています。
そして、特異なこの篆書。篆書らしいカチッとした雰囲気とクネクネした線のミスマッチさが宗教チックというかなんというか。THE・古代文字!!
碑文は椿玉華の字。こちらは王道な楷書。この人は書もさることながら、文が素晴らしいものでした。簡単に本文と拙訳を記載してみます。
碑文解読
明治廿七年朝鮮有内乱清国欲乗□并呑之
明治27年朝鮮に内乱があり、清国はこれに乗じて朝鮮を併呑した。
我皇軫念東洋之平和責清以其愈盟清不肯且要撃我艦於豊嶋
我国の天皇は東洋の平和を軫念(心配すること)し、遂に豊島沖海戦となった。
天皇の詔により軍が広島を6月に出港し、韓京に着いた。7月牙山を破り、8月平壌を囲み陥落させ、そのまま海軍は黄海において鏖戦(その場に止まり戦うこと)し勝利した。
10月満州に進入した。九連鳳凰金州大連の諸城は潰散した。11月我軍は海・陸の両方から旅順口へ進行しここを殲滅した。
明年二月転攻威海衛覆滅之清北洋艦隊窮蹙出降蓋旅順威海衛者東洋無比之要所実為清国之
咽喉於是清国震駭我軍乗勝抜営口田庄□諸壘将大挙衝天津襲北京
明年2月には攻めに転じて威海衛を滅し、清の北洋の艦隊は窮地に立ち、旅順・威海衛から投降者が出た。東洋の無比の要所であり清国の喉元であっため、清国は震え上がった。我が軍は乗じて遼河平原の営口田庄の諸所を勝ち抜き、将兵が天津を衝き北京を襲った。
清皇大懼使其臣李鴻章来謝罪請和
清の皇帝は大いに恐れてその臣下である李鴻章を使わして謝罪と和睦を請う。
我皇乃許之収台湾嶋及償金三億詔班師而清兵
天皇はこれを許し、台湾と償金三億を要求した。台湾から清兵は脱出した。
在台湾者未服拠険反抗我軍撃平之十二月外征将士尽凱旋
しかし、台湾の住民は服従することなく、反抗をした。我が軍はこれらを平定し、12月外征に出ていた将士みな凱旋した。
此役我郷出兵三人
この戦役にはわが郷から3人が出兵した。
凌酷寒堪烈暑櫛風沐雨二閲年或奮勇於戦陣或出力於土木或衛生或糧餉無不竭其本分
ひどい寒さを凌ぎ、激しい暑さに耐え、雨風にさらされ、2年。戦陣で勇気を奮い、土木に精を出し、食糧の衛生を保ち、その本分を失うことがなかった。
頃者衆胥議曰若令此未曾有之盛事物換星移遂帰煙滅則非所以勧奨忠臣鼓舞元気之義也乃建碑
伝之子孫即在治不忘乱之意也
この3人は皆、この未曾有のことが時代が移り変わり(物換星移)遂に消えてなくなることは勧められることではなく、忠臣・鼓舞・義であることを建碑して子孫に伝え、戦争が起こったことを忘れない為である。
まとめ
前半は日清戦争の具体的な進軍ルート、後半は戦争に参加した3人の置かれた境遇が書かれています。当時報道か何か、具体的にどこまで知られていたのかは詳しくわかりませんが、この碑文を読む限り、史実にかなり忠実だと感じました。
上の記事ではお隣篠葉の厳島神社にある日清戦争の紀年碑について述べています。
この地図の通り、徒歩でわずか12分程度の距離。にもかかわらず、書かれている内容が全く異なり、一方は史実に忠実であり、一方は漢詩を主体に碑文を構成しており、作者も違う。
これだけの文章を読み、書ける人物が明治時代には多かったことを証明することにもなりますね。
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