建立当初の水盤が残る神社 〜谷塚氷川神社
こんにちは。今回は草加市谷塚町にある谷塚氷川神社を参拝してきました。
【目次】
谷塚氷川神社について
前回参拝した宝持院と同じ谷塚町内にある神社で、旧名:下谷塚村の鎮守です。江戸時代までは別当寺として慈眼寺があったそうです。その名残は参道手前の墓地にみることができます。境内には末社として稲荷社と天神社がありますが、稲荷社は第六天と稲荷・疱瘡神の合祀であるようです。天神社は慈眼寺が廃寺になる時にこちらに移したのでしょう。
『新編武蔵風土記』を読んでいて気になることがありました。この神社の建立年代は天保年間(1830〜)であると境内の案内板に書いてあったのですが、『新編武蔵風土記』の完成は文政13年(〜1830)であるとされています。すると武蔵風土記に記載されているのは違う氷川社となるのでしょうか。詳しい方いたら教えていただきたいです。
古い狛犬もありました。なんか哀愁が漂う感じがなんとも言えない味わいです。
水盤「奉献」
「奉献」と刻まれた水盤。
こちらで紹介した水盤と同筆者・同刻者です。龍澤さんと青木宗義さん。
この水盤の奉納日は「天保二辛卯年9月吉日」(1831年)。この神社の由緒では建立は天保年間とあるので、冷静に考えて建立当時のものを今でも使用していることになります。
木村辰之助歌碑
境内の裏手、駐車場の辺りに隠れて立っていました。
世の中を祓ひ清めて
万代に家の栄を
まさるとぞきく
と書いています。「世を神徳によって清めれば末代まで家を栄させることができる」という意味でしょうか。筆者は木村辰之助。浅草の人で70才の時の書。江戸の御家流のような和様チックな書き振りです。碑の建立は大正2年。
日露戦没紀念碑
拝殿の手前に碑が乱立しています。中でもこの「日露戦没紀念之碑」は板橋榛嶺の書。
こちらの記事の「灯籠」と「遥拝所」が板橋榛嶺の手になります。隷書の名手です。
ご時世的にあまりよろしく無いですが、碑の正面に銃剣が刻まれています。刻線が細いので少し分かりづらいですが、これだけ細かい線を刻める刻者の腕の高さがわかります。石工は田口金作です。
以上、谷塚氷川神社の碑をご紹介しました。鎮守として信仰を篤く集めていた神社であることがわかりました。