橋を架けるのは大変益のある事業なんですね。 〜手代町会館
先日草加市と足立区に新しい橋「花瀬橋」が架かったとのニュースがありました。新しくできた文教大学のキャンパスも近くにあり、人の交流が増えそうです。
記事によると、橋名は地域の小中学生が揮毫したものが用いられているそうです。素晴らしい試みですね。
さて、今回はそんな「橋」に関わる石碑を発見しましたので、ご紹介します。
碑の一部が欠損してしまっています。残念です。
碑額には「開街橋記念碑」と小篆で揮毫されています。中国清の時代、復活をみた金石学での初期の頃のような「玉筋篆」が用いられています。日本においても大正時代ぐらいまではこの書き方が主流だったのではないでしょうか。
碑文は丁寧な隷書によって書かれています。ところどころ遊びがあり、技巧の優れた人物であったとわかります。
さて、この碑の書写は「柳坡」という雅号を持つこと(左から2行目の2字)がわかります。
実はこれ、瀬崎浅間神社の社額と同一の筆者なんです。しかし、残念なことにどちらも雅号のみがはっきりとしていて、姓名の判断がつかないのです。参考図書としている『草加の金石』(昭和59年発行)にもすでに剥落した状態で読めなかったとなっています。
剥落した状態から判断すると何か当たったようにも思えます。下部がキレイに剥がれているとすると自然災害(洪水)などによるものでしょうか。
草加町与八幡諸村東西相対□□□流其間故謀両部交通之便者屢欲架□□□不行唯籍渡船来往民太病焉諸人□□□□架橋之事周旋奔走始得諸村賛襄□□□□寅四月越六月遂成民大便焉是□□□□□瘁与篤志者義侠奮勵相合而威□□□□□業之基者也頳之鏤金石以伝不□□□□□㮣
明治二十五年壬辰第七月□□□□
柳坡 □□□撰并書
草風館 □□□
鐫人 青木宗次
碑文はこのように書かれています。剥落した部分を□で当てましたが、抜けている字数が正しいかどうかは不明です。
草加町と八幡の諸村は東西で分離していた、その間は交通も不便であったため、船での往来がメインであった。そこで、橋を架けることが急務となり諸村を奔走した人物がいた。
四月から六月になり、遂に橋が完成し、民はその便利さを享受した。
橋の完成に奮励したことを讃えてこの碑を造る。
ざっくりですが、訳すとこんな感じになるでしょうか。この「開街橋」がどこにあるか不明なのも残念です。
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