石碑巡遊〜手書きの魅力

名文・名筆を求め、各地の史跡・社寺などを巡り紹介していきます。現在、NOTEへ移行中完全移行後、こちらは閉鎖します。

中山吉長頌徳之碑

目次

所在地:〒334-0053 埼玉県川口市安行吉蔵1-25  吉長橋

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 東京外環自動車道草加ICの近く、伝右川を横目に行き、桜並木を通り過ぎた先の左手にポツンと巨大な石が建っています。これが中山吉長頌徳之碑のです。

 私が碑に魅せられたのは宮城県にある多賀城碑ですが、ブログを書いて日本の碑石の魅力を伝えていきたいと思ったのはこの碑がきっかけです。初めてのブログで至らないところが多いと思いますが、どうぞ末長くお付き合い頂けると嬉しいです。

 

全景

 

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 非常に大きい碑です。2m以上はあるのではないでしょうか。

 

碑額

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 「中山吉長頌徳之碑」と陽刻で刻まれています。この碑額は第二十五代内閣総理大臣 若槻禮次郎の書です。国のトップが碑の顔になる額を書いたとなると気になってきませんか?

 さて、次は肝心の碑陽です。

 

碑陽

※全11枚

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 長い事風雨に曝されてきたからか、石の傷みはひどいように見えますが、文字の判別はできます。漢字とカタカナを混ぜた文章ですね。現代の書道界では盛んに漢字かな混じり調和体という呼称で日本語を書こうという風潮がありますが、カタカナを調和させるのはなかなか類を見ないと思います。私の知る限りではそれをやって作品化しているのは上條信山が思い当たるぐらいです。そんな漢字カタカナ混じりの碑文を読んでいきましょう。

 

碑文:

正三位勲一等男爵若槻禮次郎題額

君ハ明治五年埼玉縣北足立郡安行村ニ生ル同三十一年村長ニ推サレテヨ

リ勤績四十年ニ及ビ□ニ村民ノ福祉ヲ念トシ百般ノ施設為ササルナシ就

中用排水路ノ改修ハ君ガ千載不朽ノ功績ナリ抑モ本村ヲ貫流スル傳右川

ハ源ヲ野田村ニ發シテ綾瀬川ニ注グ蜿蜒五里餘ノ水路ナリ多年荒廃シテ

泥土皮床ヲ埋メ或ハ蘆□ノ繁茂ニ委シ或ハ蓮根慈姑ヲ栽フル者アルニ至

ル故ニ一朝豪雨致シハ沿岸忽チ氾濫ノ厄ニ遭ヒテ渟浸數日ニ亘リ被害甚

大ナリ君夙ニ治水ヲ以テ急務ト為シ百万有志ヲ勤説シテ同三十二年遂ニ

野田大門戸塚新田安行新郷谷塚草加八幡ノ九町村水利組合ヲ組織シ水路

ノ改修ニ心身ヲ傾倒スルコト三十九年一日ノ如シ今ヤ其ノ功漸ク成リ流

域二千四百餘町ノ耕地ハ昔日ノ面目ヲ一變シテ肥沃豊穣ノ美田ト化シ聯

合町村等シク其ノ□利ヲ享ク君身ヲ持スル恭謙志ヲ操ル堅實洵ニ衆□ノ

儀範タリ是ヲ以テ昭和五年擧村一致君ノ壽像ヲ建設シテ其ノ徳業ヲ頌揚

セリ又同九年特別大演習ニ單獨拝謁ノ殊恩ヲ蒙リ同十年新宿御苑ノ觀櫻

會ニ召サルルノ光榮ヲ擔ヘリ以テ君ガ治績ノ大ナルヲ知ルベシ茲ニ傳右

川水路改修ノ完成ニ當リ碑ヲ建テ功ヲ勒シテ芳ヲ後昆ニ傳フ

従三位勲三等 杉敏介撰

従三位勲三等 菅虎雄書

 

※1行32字 18行

 

碑文意訳:

 中山吉長君は明治5年埼玉県北足立郡安行村に生まれる。31年村長に推されてから勤めること40年に及び、村民の福祉を想い多くの施設を建てた。特に排水路の改修は千載不朽の功績であった。安行村を貫くように流れていた伝右川は野田村(現:さいたま市大門)より綾瀬川に注ぐ。延々と続く約20Kmの水路である。年々荒廃し、泥や土、皮などが床を埋めるようになり、蘆なども茂るに委ねていた。その影響でレンコンやくわいを栽培する者がいたほどだ。

 ひとたび豪雨に遭えば沿岸はたちまち氾濫し、浸水してしまうこと数日に渡り被害甚大であった。中山氏は治水を急務としてあらゆる有志を集め、刻苦精励し明治32年ついに野田・大門・戸塚・新田・安行・新郷・谷塚草加・八幡の九町村水利組合を組織し水路の改修に心身を傾倒すること39年、一日のように感じるほどであった。今やその功績がようやく日の目を見ることになり、流域2400あまりの町の耕地は昔日の面影を一変して肥沃豊穣の美田となった。連合町村はもれなくその功利を享けた。中山氏は生活態度が正しく、恭謙(つつしみ深く、へりくだること)の志であって堅実であり、まことに人々の模範であるとして昭和5年、村を挙げて像を建立し、その徳業を掲揚した。また昭和9年特別大演習(旧陸軍において,天皇統監のもとに原則として毎年1回行われる大規模の演習のこと。)で独り、拝謁の恩義を頂いた。昭和10年新宿御苑の観桜会に招待される光栄を担ったことからも中山氏の治績が大きいことを知るべきである。ここに伝右川水路改修の完成に当り碑を建立し功績を刻んで芳名:中山吉長を後世に伝える。

 

中山吉長氏について

 自信のない箇所もありますが、おおまかに訳してみました。26歳から40年間も村長を勤めるだけでも掲揚ものだと思いますが、荒れ放題だった伝右川を整備して人々が住みやすい土地を作っている大人物ですね。なのに、ググっても詳細が出てきませんので、簡単に碑文の内容から略歴でも作ってみましょうか。

 

  •  明治5年(1872年)埼玉県北足立郡安行村(現:川口市安行)に生まれる。
  •  明治31年(1898年)26、7歳で村長となる。
  •  明治32年 九町村水利組合を組織し水路の改修に取り組み始める。
  •  昭和5年(1930年)像を建て掲揚される。(現在は紛失?)
  •  昭和9年(1934年)特別大演習で拝謁の恩義を頂く。
  •  昭和10年 新宿御苑での観桜会に招待される。
  •  昭和13年(1938年)伝右川の水路整備完了か。

 

 この略歴が正しいとすれば、氏は66歳以上生きたことになります。いくら明治時代といっても現実的な年齢ですね。

 

 明治5年10月26日ー昭和14年3月1日(1872ー1939) 農事改良家・村長。吉蔵新田(川口市安行)生まれ。中山幾之進の2男。明治29年(1896)安行村長に選出されて以来没するまで43年間村政を担当した。同38年村農会長、大正5年(1916)戸塚・神根・安行の連合農会を組織、技術者を派遣して各地の農業の発展を促した。また用水改良に力を入れ、関係面積約2千町歩を改善、私財を使って発動機、付属品等を求め、生産物の調整加工に巡回。苗木の改良、販路の拡大にも尽くした。(埼玉人物事典p599)

 埼玉人物事典に記載がありましたので、追記します。(R4年2月)

筆者 菅虎雄

 飯島春敬 偏 『書道辞典』p393に菅虎雄の説明として

元治元ー昭和18年11月13日(1864-1943.80歳)文部省中学校教育試験委員(習字科)を勤めた。

とあります。芥川龍之介羅生門の題字を書いたことでも知られた人物で、夏目漱石の友人でもあります。

 この碑がいつ書かれたか正確な日付はありませんが、昭和13年以降に書かれたとすると75歳以降の晩年の書といえます。線は細身ながらも骨力があるようです。古典は何を学んだかはっきりとしませんが、隷書はやりこんだようです。右上がりが強くなく、刻むような震えがある線は隷書学習から来ているのでしょうか。いずれにせよ、拓本を取っておきたい石碑です。

 

まとめ

 碑額を当時の総理大臣、文も書も第一高等学校(旧制高等学校)の教授陣が関わるなど、如何にこの伝右川の治水事業が偉大であったかを偲ぶことができます。側にある橋の名前は吉長橋であり、中山氏の名前から取ったと想像できます。

 碑陰には創立功労者として中山平、その他建設関係議員の名前が刻まれ、伝右川用悪水路普通水利組合が建設したとあります。石工は関鶴羽という人物で当時の有名な石工だったそうです。街のあちらこちらにある碑。何気なく存在しているので普段見逃しがちですが、歴史を感じることができる重要なものでもあることがわかります。

 こんな感じで碑石の魅力を伝えていければと思っていますので、面白いと感じて頂けましたら、読者登録をお願いします。